豊受神社について 宮司さんに聞きました


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私達が住んでいる豊岡地区には、昔から日本三大悪風の一つに数えられる「やまじ風」があり、 春先に日本海を低気圧が通過するとき、台風並みの南風が吹き下りてきて、建物や作物に被害をもたらします。

この「やまじ風」については地元で代々言い伝えがあり、豊岡地区を見下ろす豊受山(1247m)の山頂近くに 「風穴」と呼ばれる岩穴があり、地元の人々の間では、そこから「やまじ風」が吹き出すものと考えられてきました。 昔からこの風に悩まされてきた、豊岡町大町、富郷町豊坂の両地区の人々が、今でも毎年二回豊受山に登り、 風穴に団子を投げ込むという風鎮祭が行われています。

この度、この風鎮祭につきまして、豊岡町大町 厳島神社の宮司さんにお聞きしたところ、豊受山の「豊受神社」、 その歴史や、神社に伝わるお話、神事についてなど、わかりやすく、ご親切に教えて下さいました。ありがとうございます。 私達の地域行事に関する歴史や由来の貴重なお話と思いましたので、ここに掲載させていただくことにしました。 (写真撮影、掲載に関しましては特別に許可を頂きました)



豊受神社はどんな神社ですか?

由緒(ゆいしょ):天武天皇が、豊岡山(豊受山)に豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)をおまつりしたのが 白鳳6年9月13日(1300年ほど前)と伝えられていました。もともとは、石の社でしたが、大同3年9月(808年) より木の社となりました。それ以来、伊勢神宮にならい式年遷宮(20年ごとに御社殿を建て替えること)を行っています。





どんな神様なのですか?

・豊受姫大神(とようけひめのおおかみ):伊勢神宮の外宮におまつりされている神様と同じ神様です。衣食住など、 人が生きていくために必要なもの全てを司っている神様です。

・お名前は一つではなく豊受大神(とようけのおおかみ)、登由宇氣比賣命(とようけひめのみこと) 御食津命(みけつのみこと)など、他にもたくさんのお名前を持っておられます。

・豊受姫大神の他にも、国常立命(くにのとこたちのみこと)、天太玉命(あめのふとたまのみこと)、 瓊々杵命(ににぎのみこと)天児屋根命(あめのこやねのみこと)の5柱(はしら)の神様をおまつりしています。



お祭りはいつですか?


大祭(おみねさん):年に夏と秋の2度、7月下旬(旧暦6月13日頃)と9月13日頃に大祭を行っています。9月の大祭が新暦で行われているのは、旧暦で行うと嚴島神社(豊岡町大町)や他の神社の秋の大祭と重なるためです。





お祭りにはどうやって行くのですか?


まず、豊受山に登ります。途中、車で行ける所までは車に乗って行きます。そして、今度は車を降りて、歩いて神社まで行きます。歩きで1時間30分くらいかかります。







 豊岡町大町側から歩いて登り始めると、途中にフライパンを木につっている場所が3か所あります。 これは、鐘の代わりです。この場所に来たら、このフライパンの鐘を鳴らして下さい。鐘を鳴らして、 動物たちに人が通ることを知らせます。人が通る道は、豊受神社にお参りするための参道(さんどう)です。 豊受神社の大祭を行うために登る人たちが、無事に神社まで行けるように、参道で動物たちと出会うことで、危険な目にあわないようにお願いしながら鐘を鳴らします。





1時間程度歩くと尾根を越えて南側にでます。そして、少し進むと鳥居(とりい)があります。鳥居をくぐるとそこからは、 神域(しんいき)といって神聖な場所です。この鳥居からは、豊受神社の中に入ることになります。鳥居から先へ進む場合には、 トイレなどは、あらかじめすませておいて、神域を汚さないようにして下さい。これは、どの神社でも同じことです。









鳥居をくぐると右が参道で、左に前神様がまつられています。この前神様の神様は、豊受姫大神をおまつりしています。 前神様に、これまで無事に上がれたことに感謝し、これから先も無事に上がれるようにとお参りして先に進みます。

 



それから、30分程度進むと御社殿が見えてきます。   御社殿に着いてから、大祭の準備をします。準備ができたら、いよいよ、大祭を始めます。









大祭の神事について


まず、「これから大祭を行います。」と、神様にご報告するために開式太鼓を鳴らします。





その次に御榊(おさかき)の木でできている祓串(はらいぐし)で、お供え物や参拝者の皆さんを神様に失礼のないように祓(はら)い清めます。





この次に奉幣(ほうへい)という行事を行います。神職が、神様の御神徳(ごしんとく)、恩頼(みたまのふゆ)を御幣(ごへい)にやどらせて、 その御幣を参拝者の皆さんお一人お一人に当てることで、神様の御恵(みめぐみ)をいただきます。







その後、祝詞(のりと)を神様に読み上げ (奏上[そうじょう]と言います)ます。祝詞は、みなさんが今まで、神様にお守りいただいたことへの感謝と、みなさんのこれからの家庭の中が 穏やかで健康で、安定した収穫と収入が頂けますようになど、どうかお守り下さいと神様にお願いする内容になっています。 そして、日本三大局地風と呼ばれている「やまじ風」の被害がないようにと神様にお願いしています。





次に、玉串(たまぐし)という御榊の小枝を神様にささげます。これは、玉串に感謝の心やお願いごとを乗せ神様に見ていただく行事です。 このときに、二礼二拍手一礼の作法で神様にごあいさつします。最後に閉式太鼓を鳴らし、無事に大祭の神事を終えたことを神様にご報告します。







だんご投げ入れ神事について


大祭の神事が終わると、続いて、だんご投げ入れの神事に移ります。まず、風穴神社の前に移動し、神様にやまじ風が吹かないように、 吹いても神様のお力で大難(大きな災い)を小難(小さな災い)に、小難を無難(災いがないこと)にとお願いをします。





そして、風穴神社のすぐ前にある風穴にだんごを投げ入れます。昔、この風穴は、龍宮(りゅうぐう)までつながっていると言い伝えられており、 だんごを投げ入れても落ちた時の音がしなかったそうです。





だんごは参拝者全員で投げ入れるので、一人が投げ入れるだんごの数は、その時によって違います。夏の大祭は、麦の粉で作った団子を、 秋の大祭は、米の粉で作っただんごをお供えし、数は365個で一年の日数と同じです。閏年(うるうどし)には、366個になります。





昔は、氏子の地区の範囲が津根郷であり、東西の範囲は今の寒川町の一部から土居町の一部までで、南北は浜辺から高知県との境まででしたので、 参拝者も多かったそうです。その当時は、「ほかい」という木の箱一つにだんごを365個入れていました。一つの村で「ほかい」が一つで、 7つの村が「ほかい」を持っていたそうです。これを「七カン片荷(ななかんかたに)」と言いました。また、別の言い方もあり、豊岡町大町 (昔は大町村でした)は、「ほかい」一つと魚をお供えしていたそうで、この魚を「ほかい」半分として数える場合には、 「七片荷半(ななかたにはん)」と言っていました。









神事を終えると昼食になります。神様にお供えしただんごやお酒もいただきます。これは、神人同食(しんじんどうしょく)といって、 神様が食べた物を人もいただくことです。神様が食べることで神様の御恵のこもった食べ物を人が食べ、神様のお力をいただくことができるとされています。 ・お供えをしたご飯やアメ、イリコ、果物などを御社殿東側の丘の上へ置いておきます。また、お供えをしたご飯は、他に、神社に来る途中で見た、 鐘をつってある場所にも置いて帰ります。これは、動物たちへのお供えになります。鐘をつってある場所は、昔は水飲み場で、水の豊富な場所でしたが、 今は水が減り、飲むことが難しくなっています。





神社に伝わるお話


正嘉2年(1258年)のこと、式年遷宮のために用意した木材を豊受山に運び、次の日に行ってみると、運んでいた木材が一つもなくなっていました。 これに驚いた住民たちはあちこち探しましたが、見つけることはできませんでした。住民たちは、この木材がけがれていたので、 天狗が持って行ってしまったのだろうか、と不思議に思いました。それで、木材を持って上がったその日に御社殿を立てることに決めました。この習慣は現在まで続いていて、「一夜建立(いちやこんりゅう)」または、「一日建立(いちにちこんりゅう)」と呼ばれています。





・昔、越智玉澄という人が、船に乗っていると突然、嵐にあいました。嵐のため、船は今にも沈みそうでした。 そこで、玉澄は、豊岡山(豊受山)に向かい嵐のおさまるように必死に祈りました。すると、赤い火の玉が豊岡山の西にある山にあらわれ、 嵐はおさまったということです。その後、玉澄は、豊岡山に登り神様にお礼をしたそうです。

   



その火の玉の光は海にも映ったそうで、そこから、この海を火映灘(ひうつりなだ)と呼び、その後、燧灘(ひうちなだ)と呼ばれるようになったそうです。 赤い火の玉があらわれた山は、赤星山と呼ばれました。赤い火の玉を赤い星になぞらえたのでしょう。











豊受神社延記書


下の巻物は、江戸時代に書かれた豊受神社延記書の写しです。